戦争の記憶、平和への思い① 命からがら満州から帰国 菰野・佐久間さん

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 戦後75年となる今年、戦争体験を2人の方に聞いた。新型コロナの影響で、ウイルスへの警戒が強まる中、社会の変化は著しい。しかし、どのような状況であっても平和への思いは揺らいではいけない、悲惨な歴史を知らない世代が多くなった社会の中で、体験を聞き、今一度考える機会としたい。

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 菰野町千草の佐久間三郎さん(82)は、まだ5歳だった1942年6月、高知開拓団の一員として、当時の満州国(現・吉林省)舒蘭縣小城村へ渡った。現地では病気や飢えで兄弟4人を失い、命からがらたどり着いた引き揚げ船では多くの人が海へ身を投じた――。今なお消えない戦中・戦後の記憶や、必死に家族を守ってくれた母への思いを語った。【家族の写真や戦時中の母の腕章などを手にする佐久間さん=菰野町千草で】

 渡航後、父が関東軍に召集された。45年、「沖縄が陥落した」という噂だけが流れたまま撤退命令が出され、家族は北に約230キロ離れた黒竜江省ハルビンへ。その道中で荷物や現金を盗まれ、ハルピンでは学校の講堂の一角に落ち着いたが、当時まだ2歳だった弟が病死し、泣きながら大木の根元に埋葬した。

 一家が次に目指すのは、南に約800キロ離れた、引き揚げ船が出航する遼寧省の葫芦島。炭鉱の宿舎跡に身を寄せたが、内戦の影響で食べ物の配給が途絶えた。母・鈴子さんは、何とかして子どもたちに食べさせようと金歯を売った。ブローカーが力ずくで抜き、真っ赤な血が出た。佐久間さんは弟と無我夢中でブローカーをたたきまくったという。血を流しながらもその金でふかし団子を買った。衰弱していた6歳上の姉は、団子を少し口にしたものの、その夜息を引き取った。

 吉林省にいた時の隣人が佐久間さん家族を訪ね、食料と現金を渡し励ましてくれたこともあった。しかし、寝込んでいた2歳上の姉は食べられずに亡くなり、再び食料が尽きると母はまた金歯を売ったが、5歳上の兄もついに息絶えた。

 47年春、いよいよ葫芦島へ向け、仲間とともに出発。山中を歩くしか手段は無く、同行した仲間たちは次々と倒れ、港に着けたのは佐久間さん家族だけだった。6歳下の弟は現地の人に一時預けていたため、乗船手続きで「記録がないので船に乗れない」と言われ、放心する母と泣き叫ぶ弟。9歳になっていた佐久間さんは母の上着を脱がせて弟を縛り付け、上着と風呂敷で隠し、兵士が監視する中、意を決して母の背を押し、船へと続く足場板を駆け上った。

「今でも夢に」
 
 「日本は焼け野原で、頼れる人はもう誰もいない」というデマにだまされ、奇声を上げ我が子を海に投げ込む人や、子を背負い身投げする人も見た。「その光景は今でも夢に見る」という。舞鶴港(京都府)に着いたのは47年の初夏。自分の体を切り刻む覚悟で幼い息子2人を守りぬいた母はそれから46年後、84歳で他界した。

 「帰国しても貧しく、苦労の連続だった母を少しでも楽にさせ、喜ばせたいと思った。弟と自分にとって、母はかけがえのない存在」と回想する佐久間さんは「戦争がもたらした悲劇を一人でも多くの人に知っておいてもらいたい」と胸の内を語った。

YOUよっかいち8月8日付186号2面から