第6回 下野・保々

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保々地区内に架かる新小牧橋
保々地区内に架かる新小牧橋

 下野の名前は、中世にあった霜野御厨(しものみくりや)に由来します。明治22年に山城村・東大鐘村(現在の大鐘町)・西大鐘村・北山村・中里村(現在の朝明町)・札場新田(現在の札場町)の6村が合併したのが始まりです。町名の由来は、朝明とあさけが丘は古代から明治29年まであった朝明郡から取ったもの。大鐘・西大鐘は、古代の郷名、大金郷(おおかねごう)にちなんだものです。金(かね)とは鉄のことで、鍛治屋集団の居住地だったと考えられます。北山は北側に丘陵地があり、札場は江戸時代、八風街道の高札場があったところです。八千代台は響きの美しさから。山城は北勢四十八家の一つ、海老名氏の居城だったところです。
 保々の名前は、中世の保保御厨(ほぼみくりや)に由来します。「保」は、郡の中にある郷の、さらに細分化された単位を言い、これが重ねられたと考えられます。こちらも明治22年に小牧村・中野村・市場村・西村の4村が合併して誕生しました。市場は八風街道の中心地で、保々に市場があったことにちなみます。小牧は牧場の意味なので、馬の生産地であったのかもしれません。高見台とまきの木台は響きの美しさから。中野は保々の中央にある原野で開墾地、西村は市場村の西で、旧称は保々西村でした。

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