第8回 橋北

224
慈善橋
慈善橋

 橋北とは、三滝川に架かる三滝橋の北側を意味し、かつては伊勢湾の入り江で、葦が生い茂る湿地帯でした。浜一色とは海浜、浜辺のことで、1種類だけの年貢を負担する土地という意味です。江戸時代に入ると、東海道四日市宿に人馬の提供の役割を担う助郷として、また、道中の旅人向けの商いの町としても賑わいました。
 明治中頃まで、浜一色村から四日市の町に行くには三滝川を歩いて渡るのが主流で、大雨の時などは大回りで三滝橋を渡りました。これを解決しようと、浜一色村の天聖院住職の林道永が四日市の町を回って資金を集め、明治24(1891)年に三滝橋下流に木橋を架けました。住民は感謝の意を込め道永橋と名付けようとしましたが、林本人が遠慮したため慈善橋となりました。
 明治22年、市制町村制の施行により新しい三重郡四日市町ができる際、浜一色村は隣村の浜田村、末永村、赤堀村、芝田村、久保田村の各一部と共に、新しい四日市町に編入しました。現在の町名の由来は、午起は元禄15年午年に開墾(起)した所の意味。川原町は三滝川沿いにできた平野、京町は住民の多数決によるのだそうです。高浜町は海浜や浜辺にちなむもの、滝川は三滝川の略、陶栄は萬古焼の繁栄を願って、東新は通称町名の東町、新浜町から一字ずつ取ったことによります。