【あれから73年 戦時の記憶】 「四日市じゅう、何もない」

1872

浜田町・山路浩一さん

 「諏訪神社の境内には、黒焦げになった死体が山のように積まれ、濡れむしろで覆われていた」。四日市市浜田町の山路浩一さん(84)は、1945(昭和20)年6月18日未明にあった四日市空襲の翌日に見た光景が今も目に焼き付いている。【戦時中の体験を語る山路さん=四日市市浜田町で】

 当時小学5年生だった山路さんは菰野町下村に住んでいた。家は、同市西浦の天理教四日市分教会の関係者で、戦時中は祖母が女手で教会を守っていた。

 空襲の翌日、祖母の安否を心配し、父と一緒に自転車で1時間かけて四日市へ向かった。「明治橋(同市滝川町)まで来たら、四日市じゅう何もない。見えたのは熊沢ビル(旧警察署)と旧市役所、天理教教会。それ以外は全て焼け野原だった。三滝川には死体がごろごろしていた」。

 中心部に位置する諏訪神社には、次々と死体が運ばれ、覆っている濡れむしろを開くたびに黒焦げになっているのが見えた。帰るころには、その場で火葬していたという。

 祖母は幸いにも無事で、寝ていた本殿にも焼夷弾が落とされたが、不発だったり天井でとどまったりしたおかげで助かったのだという。しかし、本殿西側にあった宿泊施設は全て焼けてしまった。

 「生きるか、死ぬかの毎日だった」。戦争が激しくなった45年は、菰野町にも米軍のグラマン戦闘機が飛んできた。空襲警報が鳴った時には既に頭上にいる状態。電柱の上くらいの低空で飛び、子どもを見るとわざと機銃掃射で脅してきた。「ニヤニヤ笑いながらガムをかんでいる顔が見えた。恐怖しかなかった」。

 毎年、四日市空襲があった時期が近付くと、「あの日の光景を思い出す。戦争のない今はありがたいね」としみじみ語った。

 

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