「戦争、やめろと言いたい」 令和の今、語る記憶

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笹川の矢田さん

 「赤紙(召集令状)1枚で、殺されに行くようなものだ」。太平洋戦争時、中国中部の漢口(現在の湖北省武漢市)付近に配置された陸軍高射砲隊に入隊した、四日市市笹川の矢田尹さん(94)は「戦争になったら、10代や二十歳前後の子が召集される。そのつらさが分かるか」と、当時を振り返り語気を強める。【出征の朝に撮影してもらった写真。胸には千人針(矢田さん提供)】

 小山田村(現在の同市山田町)出身で、神戸中4年時には配属将校の指導で実弾射撃の授業があったという。卒業し、横須賀海軍施設部の関連施設で働いていた1944(昭和19)年12月、召集令状が届いた。この時、矢田さんはまだ19歳だった。

 数日後、青年団の太鼓に送られて出征。村役場で働いていた12歳上の兄が特別に大阪まで付き添ってくれた。博多から韓国・釜山に渡り、上海を経由して漢口の部隊へ現地入隊した。

 部隊では高射砲の訓練を受けたが、「古年兵や上等兵から殴られる毎日」。何か思うことがあっても、反発すれば余計に殴られる。靴底で思い切り殴られ、あごがはれ、歯が浮いて、ご飯にお茶を入れてかまずに飲み込んだ。「『これくらい我慢できないようでは戦争に負ける』ということだったのか」。

 夜の消灯ラッパは「ものすごく寂しい歌」だった。「新兵さんは可哀想だな。また寝て泣くのかよ」と聞くと、少年兵たちは母親のことを思い出し、泣いていたという。

 陣地には兵隊の宿舎と大砲が4機ほどあったが、夜、アメリカ軍の戦闘機B29が飛来し、どこからか花火のようなものが打ち上がり、陣地が昼間のように明るく照らされた。加えて、昼間は別の戦闘機(P51)が機銃掃射してきた。本当に死と紙一重だった。

 「戦争に負けたら日本では生きていけない」と考え、休日には落花生やパンなどを売りに来る中国人の子どもを相手に、中国語を一生懸命覚えた。「それが唯一、現地で心が安らいだ時だった」と振り返る。

 翌45年8月15日、どこからか敗戦の報がもたらされた。「あーやれやれ、命助かった。兵隊で殺されないし、負けて良かった」。それが偽らざる心境だった。9月に「陸軍伍長」の階級に任命されるが、もはや意味は無く、復員できたのは更に2年が経過してからだった。

 復員後は地元で米穀店を創業し、プロパンガス、酒類も展開。結婚して4人の子に恵まれ、現在はひ孫たちが可愛くて仕方がない。終戦から74年、世界中でさまざまな争いが起きている令和の世。「戦争はしないほうがいい。やめろと言いたい」――。戦争の怖さ、つらさ、理不尽さ。身をもって感じたからこそ、そう断言できる。

【軍隊での経験を語る矢田さん=四日市市笹川で】

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