「コラム」ふるさとの名前 第16回【日永】

719
大宮神明社

 日永地区はその昔、海でした。鎌倉時代頃に海岸線が後退して広大な土地が広がりました。江戸時代には、東海道を行き交う旅人向けに農業の傍ら茶店や土産物を商う家が立ち並ぶ、商業の村として発展しました。日永の名は平安時代後期の古文書にある「日長里」が換え字されたものです。

 江戸時代は日永・泊・六呂見の3村でした。明治4年の「地方自治体の大区・小区制」によって、日永と泊は日永村に、六呂見は塩浜と馳出と一緒になりましたが、実情に合わなかったため、明治12年に日永村・泊村・六呂見村の3村になりました。その後それぞれの村役場や村長が話し合いの結果、明治24年に日永村・泊村・六呂見村は三重郡日永村とすることになりました。

 町名の由来は、梅ケ丘はかつて日永梅林の名所だった所。追分は道の分岐点で、人や荷物、馬が分かれる場所。伊勢街道の出発点です。東海道五十三次の四日市と石薬師の間にあることから間の宿とも呼ばれました。泊はその昔入り江になっていて、船泊り、停泊を略したもの。大瀬古は満潮時に海に沈まない浅瀬、中瀬古は満潮時に沈む浅瀬のことと言われています。前田は山の前の田んぼの意味です。

協力:四日市観光ボランティアガイド 監修:四日市市立博物館
※2022年8月6日(210号)発行 紙面から