東日本大震災から12年 東北の教訓三重で伝える 帰郷して防災を仕事に 

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元三陸新報記者 河村俊秀さん

 東日本大震災から12年。「災害は想定を超えて起こる。大切な命を守るため、備えてほしい」と話す四日市市在住の河村俊秀さん(29)。大学時代に東日本大震災の被災地にボランティアに通い、宮城県気仙沼市で新聞記者として復興の様子を伝えてきた。昨年帰郷し防災用品の企画・製造販売をする企業の社員として、被災者の声を伝えている。【商品を前に経験を語る河村さん=四日市市小古曽】

 河村さんが高校2年の2011年3月11日、東日本大震災が起こり、テレビに映る被災地の映像に言葉を失った。愛知県の大学に進学後、被災地に行った先輩の後押しでボランティアに参加。「誰かの役に立ちたい」と思った。

 岩手県の被災地は震災から2年経っていたが更地が広がり、復興の遅れに驚いた。その後も宮城県など被災地に10回ほど足を運んだ。石巻市ではがれきの中から親戚を探し出し遺体安置所に運び、そこで多くの遺体を見た漁師の話を聞いた。「地元に帰って、こんな経験をしないように伝えて」という言葉が心に刺さった。

気仙沼で新聞記者に

 就活を始め面接でボランティアの話をすると「色々経験しているけど、何か実績は残したの」と聞かれ、何も答えられなかった。それが悔しく、「復興の役に立ちたい」と、大学卒業後に気仙沼市に移住し、水産加工会社勤務の後、18年に「三陸新報」の記者になった。  

 取材で訪れた気仙沼市の「伝承館」で中高生が震災の語り部をしていた。地元のために自分の言葉で経験を語る姿に心が揺さぶられた。一方で南海トラフ巨大地震の不安を抱える地元は、被災地に比べ防災意識の低さが気になった。「いつかは帰るつもりでいた故郷へ戻り、災害の教訓を伝えたい」と、四日市に本社のある「LA・PITA」に転職した。

防災の輪を広めたい

 取材で避難所の寒さに苦しんだ話や、不衛生なトイレに行くことを躊躇し、体調を崩した高齢者がいたことを聞いた。今は営業社員として防寒用のサバイバルシートや使い捨てトイレなどの必要性を伝える。今後は業務だけでなく地域でも防災の輪を広げていきたいと考えている。

【2016年気仙沼市でウニの加工を見学する河村さん(後列中央)=合同会社colere提供】

(2023年3月4日発行 YOUよっかいち第217号より)