夏の甲子園のマウンドには立てなかったが、最後の舞台は残っている――。三重県四日市市出身の三重高校3年、古川稟久投手は、春のセンバツでは最速149キロを記録し、優勝した大阪桐蔭を3イニング無安打に抑えた右腕だ。夏の甲子園は右肘の肉離れで登板はかなわなかったが、10月に青森県で開かれる国民スポーツ大会での復帰を目指している。「高校野球の集大成を示したい」と、悔しさを胸に最後の舞台を見据える。

野球を始めたのは小学2年、日永フェニックスへの入団がきっかけだった。四日市市立南中学校では陸上部に所属しながら桑員ボーイズで投手として活躍。3年時には中日本選抜に選ばれ、中部地区トップレベルの投手として評価された。県内外の強豪校から声がかかる中、「三重県から甲子園に出るには三重高が一番近い」と進学を決めた。
入学後は寮生活に戸惑い、やる気を失った時期もあった。しかし、同級生の秋山隼人選手から「何のために三重高に来たんだ、真剣にやろう」と声をかけられ、気持ちを立て直した。1年夏には目標だったベンチ入りを果たし、三重大会4試合に登板した。

軸足の右脚に体重を乗せ、左足を高く上げて重心を低く保つフォームを磨き、球威と安定感を高めた。183センチの長身から投げ込む140キロ台後半のストレートと鋭いスライダーが持ち味だ。課題が見つかると東海滋コーチに相談し、東コーチは自主練習にも付き合ってくれた。「東コーチがいなければここまで成長できなかった」と語る。

2年夏の三重大会、三重高は昴学園に敗れた。5回まで登板していた古川投手は、先輩からセンバツと翌年夏の連続出場を託され、責任の重さを強く意識した。重圧に押しつぶされそうになりながらも立て直し、センバツ出場をかなえた。大阪桐蔭戦では149キロの球速を記録し、変化球で4三振を奪った。「全国でも通用する」と実感した瞬間だった。

夏の三重大会決勝では5回から登板し、1安打無失点。しかし、右肘に激痛が走り降板した。診断は肉離れで全治1カ月。甲子園では背番号20をつけて伝令としてチームを支えた。スタンドからの応援の声がよく聞こえ、「こんなに応援してくれていたんだ」と胸が熱くなったという。選手たちは古川投手を再びマウンドに立たせようと勝ち進んだが、強豪・天理に敗れ、最後の夏が終わった。
10年以上野球を続ける中で、野球が嫌になった時期もあった。しかし、一度距離を置くことで、また野球が好きになれた。「苦しくなったら一度離れてみてもいい。楽しかったことが思い出せれば、またやり直せる」と、今苦しんでいる後輩たちにエールを送る。
四日市に帰省していた8月20日、三重高が国民スポーツ大会の出場校に選ばれたことが発表された。国スポの高校野球は全国でわずか8校しか選ばれない狭き門だ。古川投手は「甲子園で投げられなかったが、チームが国スポに導いてくれた」と話す。

球速はプロも視野に入る水準だが、プロ志望届は提出せず進学を選択。大学でプロで通用する体を作り、さらにプレーに磨きをかけるつもりだ。
「国スポで150キロ台を記録し、三重高校で積み重ねてきた3年間のすべてを集大成として示したい」。最後の舞台に向け、静かに闘志を燃やしている。















